萬坊庵・つれづれの記(BLOGと演奏情報)

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2012年 04月 24日

映画:キム・ギドク『アリラン』を見る

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「映画が撮れなくなったので自分を撮ることにした」と語るキム・ギドク自身しか登場しない、モノローグ風の作品。「風」というのは、決してモノローグではないからだ。「キミとボク」のような明快かつ単調な主客の世界はこの作品にはない。
現実に存在する自分、影として存在する「自分」、自然としての「自分」。それらの「沢山の自分」が登場し、何層もの「語る」「見る」行為(それは「語る自分」を撮影した映像をパソコンのモニターで「見る自分」を固定したビデオカメラで撮影する、というシーン・・・更にそれを映画として全く第三者の観客<その中には当然、この映画を見てこのブログを描いている僕も居る>が見る・・・に象徴される)を通して、全編でしばしば語られる「人生」という言葉を解体し、無に帰するような、激しい虚無の渦を感じた映画。
どれが「本当」なのか分からない『「自分」という現象』を徹底的に突き放すこと。それが、「突き放す」という美学(もう一寸具体的にいえば「生と死の紙一重の酷薄さ」)で映画を創ってきたキム・ギドクのこの作品時点での到達点なのではないか。
「アリラン」を熱唱したり、かつて撮影した映画を独り見て涙に暮れるシーンさえも、一見素朴な様でいて実は何だかカメラの存在を意識し前提にした「周到に用意された」行為のようにも思えるのだが、思わずこっちまで泣けてくるのは何故か?「感情」は共有できる、ということなのか。
全ては計算ずくなのか?山に篭って、人との交わりを絶ち、3年も映画を撮っていないのも、ひとえにこの『アリラン』のためなのか。
で、そういうモノローグ風なシーンから、最後らへんで手作りのピストルを片手に、多分嘗ての恨みを晴らしたい人物達を次々に殺していき(そのシーンは暗示されているだけだが)お終いに自死する、という完全虚構のハードボイルドな幕切れに自然に移行し、エンディング・・・という思いがけないカラクリにリアリティを感じ、最後まで眠らずに飽きずに見通すことが出来た。
このキム・ギドクって人は、つくづく、侮れない確信犯だなあ、と思いつつ、映画館を後にした。

by ryosai160 | 2012-04-24 19:43 | thought/idea
2012年 04月 01日

SAKURA

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by ryosai160 | 2012-04-01 23:59 | diary